箱根、日光、富士山麓、軽井沢など

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 箱根、日光、富士山麓、軽井沢など、自然の美と交通の便宜とに恵まれた土地の、安易なホテルのホールなんかでは、よく、家族か親しい仲間かの数人の、午後のお茶の集りが見受けられる。その中で、欧米の白人の連中は、いろんな意味で人目を惹く。大抵、彼等の体躯は逞ましく、色艶もよい。眼は生々と輝き、挙措動作は軽快で、溌剌たる会話が際限もなく続く。心身ともに、精力の充溢があるようである。之に比較すると、日本人のそうした集りには、あらゆる点に活気が乏しい。見ようによっては病身らしく思える身体を、椅子にぎごちなくもたせて、動作は鈍く、黙りがちにぼんやりしている。精力の発露などはあまり見られない。 然しながらこれは、体躯の大小は別として、日本人に精力が不足してるからだとばかりは云えない。第一に、日本人は余りに自然に親しみすぎている。伝統的に自然の息吹きに感染しすぎている。だから、明媚な風光に接する時には、家郷的な親しみが深く、おのずから保養的な気分に静まることが多い。自然を享楽する意味合よりも、自然の中に自らを保養する意味合の方が多い。 第二には、日本人の社交性の乏しさが挙げられるだろう。ただ茲に、注意すべき一事がある。日本人は、太平洋の中に浮んだ一隻の船に乗合わしてるようなもので、日常他国人との交渉も少く、お互同士の社交性はさほど必要でなかったに違いない。それ故にか、或は他の原因でか、日常の私生活に於て、妙に精力を蓄積する術を心得ている。汽車や電車の中などで寸暇をぬすんで仮睡する才能なども、その一つの現われであろうか。下らなく動き廻ったり饒舌り散らしたりすることは、精力の消費と考えられ易いのである。それに近い道徳もあった。 それはそれとして、新たな風潮が起りかけている。主に銀座を舞台とする、新時代人の野性的な交際や論議である。飲酒や漫歩や饒舌が、もはや精力の浪費ではなく、直ちに精力の原動力であり、更に云えば、直ちに思惟そのものとなる。それによって、仕事の能率は倍加されるのである。銀座を多欲的生活の享楽地としてる人々を謂うのではない。銀座を一種の在野的サロンとしてる人々を謂うのである。こういう人々のために、銀座は明朗な清純な一隅を用意してやらなければなるまい。

— posted by id at 01:08 pm  

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