公衆道徳の訓練

       六

 公衆道徳の訓練をしなければならぬといふものがある。いや、それよりも前に、個人道徳の確立が急務であるといふ説もでる。 私はそのいづれにも半分づゝ賛成であるが、その目的を達するためには、これまで行はれてゐたやうな方法では百年河清をまつに等しいといふことを断言する。 例へば、闇取引の話がはじまる。憤慨して聞いてゐたものが、相手の事もなげな話しぶりにだんだん釣り込まれ、遂に人ごとのやうな興味に心を躍らせ、相手自身の半ば露悪的な告白に何時の間にか耳を傾けながら、遂にそんなものかと諦めてしまふのである。この現象には、たしかに、空おそろしい半面もひそんではゐるが、また同時に、腹の立たないやうな洒脱なところもあるのであつて、事の軽重がかくも不均衡に取扱はれてゐる状態を私はこゝで特に注意したいのである。人間の良心が、正しく素直に発露するためには、それがどこかでぶつかる手応へといふものがなければならぬ。正義派といふものゝ現実的なをかしみは、正義を標榜する身振りの常識に反する形式にあるのである。 道徳的であらうとするものが、やゝもすれば偽善者とみられ、自ら道徳家をもつて任ずるものゝ言行が、いはゆる道学者風な衒気をはなつのは、観念が風俗から遊離して、常人の感情にゴツリとさわるからである。 日本人は、元来、かういふ点にかけては極端に潔癖な筈である。 電車の中で老人に席を譲るのも、よほどよぼよぼな老人でないと見て見ぬふりをする者が多い。必ずしもずるいわけではあるまい。善行と見えることがそれほど辛いのだと云ふものがあれば、私は、苦笑をもつて、これを赦すであらう。席を譲つたばかりに、眼のやり場に困つてゐる若い人たちを私はいくどゝなく見かけた。もともと、こんな些細なことを業々しく道徳として教へたものゝ罪であり、また同時に、これを観念として注ぎこむことに急で、日常の作法として速かに風俗化することを等閑に附した弊である。 道ばたで子供が転んだのを起してやる。母親が駈けつけて来る。極めて自然な応酬が彼女との間に取交されることは稀れである。母親は、子供に気をとられすぎて、起してくれた男に言葉もかけず、去るがまゝに去らしめるのはまだいゝとして、逆に、子供の膝頭の血を拭きもせず、やたらにこの親切な男に頭をさげるなどはどうかしてゐる。殊に、怪我はなかつたかと案じる紳士の方はろくに見ないで、お礼をかねた小言を子供に浴せかける母親はざらにあるのである。どれもこれも、善良な母親に違ひないのである。一人一人、教養も性格も違ふであらう。しかし、そこに見られる共通な風俗的特徴は、どれもこれも、身についた感情の表現形式をもつてゐないだけである。 混雑する場所でみんなが先を争ふのを困つたものだと云ふ。しかし、よく見てゐると、なるほど先を争ひはするが、非常に消極的な争ひ方で、云はゞ、入口なら入口へ、君もはいれ、おれもはいる、といふやうな押し合ひへし合ひである。殆ど腕力に訴へるといふやうな激しい場面は生じない。黙々として、魚の如く、肩をすぼめて割り込んで行くだけである。時間があれば長蛇の列を作る習慣もそろそろついて来た。ところで、この長蛇の列でも、横から途中へもぐりこむのがゐても、それほど誰もやかましく云はない。電車の出札口などでは、左から順にと書いてあるのに、それを守つてゐる人間の眼の前へ、右からぬつとはいつて来て、いきなり手を出す。左側の先頭は、眉ひとつ動かさない。時には、慌てゝ、窓口へ出した金を一層奥へ押しやるぐらゐのものである。「馬鹿野郎、この字が読めないのか!」と啖呵を切るのを私は聞いたことがない。なんといふ穏やかな国民であらう。ところが、腹の中は煮えくりかへつてゐるんだといふことを、私は自分の経験で知つてゐる。法律や道徳で解決のつかぬものがある。序だから云ふが、かの浅間丸事件や斎藤事件で国民の示した態度はどうであつたか? かういふ問題をあゝいふところまで引つ張つて行つたのは、誰の責任か? ほんたうに云ひたいことを適確に云ひ表はす訓練のない人たちの責任だつたのである。

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